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坂本龍馬と海の薩摩

坂本龍馬

週末にうちの上海スタッフが主宰する「龍馬会」という坂本龍馬ファンの集いがあります。 そこで鹿児島と坂本龍馬についてちょっと話すことになったのでメモ代わりに。

坂本龍馬と言えば、幕末に勝海舟の弟子として海軍操練所の設立や海援隊など、海の男として有名ですが、鹿児島も明治の頃「陸の長州、海の薩摩」と言われ、海軍の要職を占めていました。
実は「海の薩摩」となるには坂本さんが深く関わっていたようです。

坂本龍馬は1836年(天保6年)に土佐(高知県高知市)で生まれ、1867年(慶応3年)に京都で32年弱の短い生涯を終えます。
坂本さんが歴史の表舞台に立つのは生涯の最後5-6年、江戸に遊学して以降のことですが、坂本さんを表舞台に登場させた人物、それが勝海舟です。

坂本さんと勝さんの出会いは1862年末、坂本さんは開国派の勝海舟を斬りに行って、逆に勝さんの話しに感銘を受け弟子になったと言われていますが、坂本さんも10代の頃には親戚を通じて長崎や下関の海外情報に触れ、外国に強く憧れていた言われているので、点と点がつながる瞬間だったのでしょうか。

1962年末頃、幕府海軍奉行だった勝海舟の弟子となった坂本さんは、勝さんが進めていた海軍操練所の設立に奔走します。1964年には神戸海軍操練所と海舟の私塾である神戸海軍塾の設立が幕府から認められ、坂本さんは神戸海軍塾の塾頭となります。

この頃の薩摩藩はまだ佐幕色が強く、海軍奉行の勝海舟とも交流があったと思われますが、坂本さんが西郷隆盛と出会ったのも、1964年8月中旬のことです。

しかしこの頃、池田屋事件をはじめとする倒幕運動に海軍塾の塾生が参加していたことが問題となり、勝海舟は江戸に召喚、海軍奉行も罷免となり、設立したばかりの神戸海軍操練所も閉鎖となってしまいます。その際、勝さんが塾生の庇護を依頼したのが、薩摩藩城代家老の小松帯刀です。

薩摩藩はこの前年の1863年にイギリスと戦争(薩英戦争)をして負けており、薩摩湾に攻め込み圧倒的な力の差を見せつけたイギリス海軍を知っているため、海軍の重要性を感じていたのではないかと思われます。

薩摩藩は坂本龍馬から航海術の専門技術を学ぶ一方で、亀山社中に出資し、坂本さんの商社活動を支援します。この亀山社中は、民間会社であることを利用して、当日対立していた薩摩と長州を和解させ、薩長同盟へのきっかけを作ります。また行き詰まった薩長の交渉を妥結させ、薩長同盟を成し遂げたのも坂本龍馬でした。
亀山社中は後に土佐藩の外郭組織となり、海援隊へと名を変えました。

薩長同盟から間もなく、京都での寺田屋事件により負傷した坂本龍馬は、薩摩藩により救助されるものの、傷が深く、西郷隆盛の勧めにより鹿児島の霧島温泉で療養します。
霧島温泉にはお龍と83日逗留しており、これが日本で初めての新婚旅行と言われています。
鹿児島市のいづろ交差点には、坂本さんとお龍さんの旅姿の像が建立されています。

その後坂本龍馬は土佐に戻り、土佐と薩摩の同盟や大政奉還に向けた動きの中で重要な働きをしますが、大政奉還直後の1867年11月15日に暗殺されてしまいました。

翌1868年、270年続いた徳川の世が終わり、日本は明治の世となりました。

その明治政府では薩摩と長州が実権を握ることとなりますが、西郷隆盛の弟である従道が海軍大臣となり、山本権兵衛、日露戦争でロシア海軍を破った東郷平八郎へと「海の薩摩」の伝統が引き継がれていきます。

 

歴史って面白いですね。